music/20140818
created 2014-08-18 modified 2015-01-02
以前、ライブの時にトークネタにした話なんですけども。ちょっとここにも書いてみます。
命の話、あるいは、猫とニワトリの話です。
僕は最近、鶏肉をよく食べます。おいしく食べます。胸肉を焼いて、ちょうどいい具合で焦げ目がついたやつなんか、美味しくて美味しくて、もうたまりません。
僕らは、他の生き物の命をもらって、食べて、自分の命を持続しています。
その、他の生き物の命って、食べたら「どこから自分」なんですかね?
例えば、ニワトリのピーちゃんを飼っていたとしましょう。
それは、庭で歩いているときには、明らかに自分の命とは別の命であるわけです。
でもそのピーチャンをシメてお肉を頂いたとき、そのタンパク質は
一体、どの瞬間からピーちゃんじゃなくなって、
どの瞬間から車ケイゾーになるんですかね?
口に含んだ時?
噛み砕いた時?
胃に入った時?
腸で消化した時?
(余談ですが私が幼い頃、車家ではニワトリを飼っていました。通算二羽。すべて近所の猫に狩られました。ある朝、庭にはニワトリの血だらけの子宮、その他臓器が転がっていました。たくさんの羽毛が散らばる中に、完全な卵になる前の、赤い球体があったことを今でも覚えています。なので、私は今でも
猫を見ると本能的に殺意を覚えます。
お願いですから、私の目の前に、あなた様が愛している飼い猫ちゃんを放さないようにしてください。)
ニワトリは、庭で歩いているときには、明らかに自分の命と別の命です。
でも、自分を構成している原子・分子と、彼・彼女を構成している原子・分子に、一体どれだけの違いがあるのでしょう。
で、
入ったら出て行くじゃないですか。
どこから自分じゃなくなるんですかね。
胃で消化した時?
腸で水分を脱した時?
肛門から出た時?
トイレで流した時?
て考えていくとですよ。
「命はどこからどこまでなのか」って、実は曖昧な範囲でしか定められないのではないか と思うのです。
定義する という語を、英語では define と言いますが、この語の語源は「端っこを決める」de-fine らしいです。つまり、あるものを定義するとは、どこから、どこまでなのか、その端を決めるということ。
そうすると、「命とは de-fine できないものである」と考えることもできるわけです。
リチャード ドーキンスという人が、「私達の生命は、遺伝情報というなんだか曖昧なものが、次々と波乗りをするように乗り継いでいく、ただの乗り物なんじゃないか」という説を唱えました。
僕はこの説に、なんとなく共感します。でもなんとなく違和感を持ちます。
身近な誰かが亡くなったりすると、いつも頭がおかしくなります。
そんで、いつも、結局答えは出ません。
僕はバカだなぁ、といつも思います。
僕の遺伝情報を継いだ生き物は、2人は生きています。1つは死にました。
先日、空手部の先輩が、奥様とお子様二人の、ご家族三人を同時に亡くされました。
その意味が、僕には理解できないんです。
僕はバカだなぁ、とつくづく思います。
【@music】